2007年07月15日

演歌嫌い

 吾輩は演歌が大嫌いだ。大嫌いというより生理的に受け付けられない。
 演歌とガラスを爪で引っ掻く音とどちらかを聞かなければならないという究極の選択を迫られたらガラスを爪で引っ掻く音を聞く方を選ぶ。
 テレビで演歌が流れてきたら急いでチャンネルを変えるか消音にする。
 演歌は日本の心だ。演歌が嫌いなのは日本人ではないと言う人がいる。
 オイオイ、日本の心を言うんだったら箏曲や浄瑠璃だろう。そうそう雅楽も忘れちゃいけない象。
 オイドンは箏曲が大好きだ。蕎麦や懐石料理のBGMは絶対に箏曲だ。
 文楽の浄瑠璃もいいなぁ。これこそ日本の心というものだ。
 演歌が嫌いなのは先ずヨナ抜き短音階だ。ピアノやキーボーの鍵盤をド・レ・ミ・ソ・ラ・ドと順番に叩くとそれだけで背筋がゾーッとする。
 ヨナ抜き短音階だけならなんとか我慢するが我慢できないのがコブシだ。コブシを聞くと身の毛がよだってしまう。
 演歌だけではないクラシックでもアウアー系のバイオリニストのようにポルタメント(コブシ)を多用する演奏家は大嫌いだ。あの鼻持ちならない自己主張に我慢できない。
 自己主張するのは大いに結構だ。
 しかし押しつけがましい自己主張は我が儘にしか過ぎない。
 作曲家の心まで演奏家の自己主張でひん曲げられては敵わない。
 だから自己主張の塊のようなピアニストのグレングールドは大嫌いだし名指揮者の誉れ高い故フルトヴェングラーも嫌いだ。
 演歌でも「真っ赤な太陽」や「川の流れのように」は美空ひばりが歌わなければ素晴らしい曲だと思っている。
 あんな素晴らしい歌をなんで聞くに堪えない曲にさせるのだろうと腹立たしくてならない。
 日本人は自己主張されるのを忌み嫌うのになぜ自己主張の塊のような演歌を好むのだろう。
 そういえば自己主張の塊のような嫌みな芸人にもファンが多い。
 演歌が好きな人は普段押さえつけられている自己主張を吐き出して鬱憤を晴らしているのだろうか。
この記事へのコメント
演歌は、メンタルの回復には、効果がなく、高音域のクラシックは、聴覚セラピーに使われるようです。日本語は1500ヘルツ以下の音域で、英語2000〜12000・米語1000〜3500だそうです。高音耳が
欲しいです。

Posted by バク at 2007年07月15日 08:44

>ピアニストのグレングールドは大嫌いだし

30年以上も前になりますが、初めてグールドのK331を聞いたときには唖然としました。作曲家の意図などは全く意に介さない稀有な方ですね。

>名指揮者の誉れ高い故フルトヴェングラーも嫌いだ。

フルベンも確かに個性がありますが、グールドと違って「大衆受け」は狙っていると思います。

ところで、演歌のコブシは自己主張とは全く関係ないと思います。小生からみればフォルテシモみたいなものです。

>オイドンは箏曲が大好きだ。

島谷さんは、非常に感覚が鋭敏で、フォルテシモとピアニシモ/スタカートとスラーのような対比があまりなくても十分に感じ取ることができるので、わざと強くしているようなコブシがキライなのかもしれません。

これを読んでそう思いました。特にグールド、フルベンがキラいなのも、「感覚に訴えるもので、強調/誇張されたもの」がお嫌いだからでは?

美空ひばりの生前は、彼女の良さがわからなかったのですが、本当に歌がうまかったですね。「川の流れのように」だけでなく「愛燦燦」も、演歌ではないですし、コブシも全然使っていないと思います。小生もコブシは好きになれませんが、淡々と歌っていて大好きです。

Posted by Takkun at 2007年07月15日 09:02

高音耳が欲しいです。
 高音域の聴力は歳を取るに従い劣化の一途を辿るそうです。
 ただ聞こえなくても肌で感じるらしく高音域がカットされた音とカットされていない音とでは雰囲気が違いますね。
これを読んでそう思いました。特にグールド、フルベンがキラいなのも、「感覚に訴えるもので、強調/誇張されたもの」がお嫌いだからでは?
 確かにそうですね。
 ザッハリッヒを売り物にしているトスカニーニでも弦楽器に打楽器を重ねて強調するので好きではありませんでした。
 花でも牡丹、薔薇など色のきつい花は好きでなくポピーのような穏やかな花が好きです。

Posted by 島谷 at 2007年07月15日 09:27

 勝手読みさんのコメントをSendmailでメール受信しましたがSeesaaが受信しなかったので転載します。
演歌しか好まないというか演歌しか分らないです。「千の風になっては」はとてもすきなんでが、これも紅白で歌われたから演歌なのでしょうか。曲もさることながら歌詞が素晴らしい

先日丹沢の山小屋で、山上コンサートがありバイオリン伴奏つきの」「千の風になって」を聞きました。とても感激しました。

私の安物のデジカメで動画を撮り下記サイトに貼りました。山小屋のランプですので映像はほとんど見えませんし、音質も悪いですがご視聴いただければ幸いです。
ttp://www.flipclip.net/clips/nabewariyama/
a316eb44ec615075178e35bed489d2c1
 勝手読みさん動画のご紹介ありがとうございます。
 携帯でもこれだけの音声録画ができるんですね。驚きました。
 千の風になってはクラシック音楽のジャンルになると思います。
 歌手秋川雅史はクラシック歌手ではないでしょうか。
 私はあのような発声法の歌声が大好きです。

Posted by 勝手読み(島谷転載) at 2007年07月15日 09:46

 歌謡曲が好きなので毎週NHK歌謡コンサートを楽しみにしています。今週の出演は市川由紀乃、門倉有希、加山雄三、キム・ヨンジャ、坂本冬美、すぎもとまさと、橋幸夫、氷川きよしとなっています。この中で音を消すのは市川由紀乃、加山雄三、キム・ヨンジャ、坂本冬美、すぎもとまさと、橋幸夫。音を出すのは門倉有希と氷川きよしの二人の予定。氷川きよしは演歌歌手というより民謡歌手風なので好きです。こういうのは演歌ファンというのでしょうか?自分でもよく分からない・・・

【そういえば自己主張の塊のような嫌みな芸人にもファンが多い。演歌が好きな人は普段押さえつけられている自己主張を吐き出して鬱憤を晴らしているのだろうか。】
 そうではなく、多くの人はただの流行歌(はやりうた)として聞き流しているだけだろうと思います。椅子に腰掛けステレオに向かって静かに聞き入る演歌ファンはごく少数ではないでしょうか。

Posted by あど at 2007年07月15日 09:59

 氷川きよしは演歌じゃないんですか。歌い出すと背筋がゾーッとしてくるので慌てて消します。
 演歌でも八代亜紀、森進一なら消さないで聞き流すことができますが五木ひろし、都はるみ、美空ひばりなどは生理的に受け付けません。
 食堂に入って演歌が流れていると慌てて店を飛び出します。
 車で入って食事を注文しお茶を飲んでから演歌が流れると店の人に断って駐車場に行き車の中で食事を食べます。
 オイドンはアスペルガー症候群なのかもしれませんねぇ。

Posted by 島谷 at 2007年07月15日 10:14

演奏する人には心が必要ないということでよろしいか?作曲家のなすがままになれと?

ところで楽譜には心など描かれておりませんがどうやって作曲家の心をつかめとおっしゃるのでしょうか?

Posted by 演奏家 at 2007年07月15日 10:15

演奏する人には心が必要ないということでよろしいか?作曲家のなすがままになれと?
 演奏する人に心が必要ないとは言ったつもりはありませんが、、、
 淡々と演奏しても心がこもると思うのです。
 故ブルーノ・ワルターは淡々と演奏していますがメロディーは流麗に歌っていましたね。
 私は殊更に楽譜をいじくり回したような演奏が大嫌いなのです。
 特に勝手にポルタメントを挿入した演奏は聴くのが耐え難いです。

Posted by 島谷 at 2007年07月15日 10:23

>作曲家の心まで演奏家の自己主張でひん曲げられては敵わない。

つまり、演奏家は自己主張するな⇒心は必要ない⇒なすがまま

では?

もう二点

作曲家の心はどうやって読み取りますか?
すべての楽曲は演奏家の心によって表現されていると思いませんか?

Posted by 演奏家 at 2007年07月15日 10:35

つまり、演奏家は自己主張するな⇒心は必要ない⇒なすがまま
 そんなことは言っていません。
 楽譜からはみ出ない範囲で心をこめて演奏できるのではないでしょうか。
作曲家の心はどうやって読み取りますか?
 作曲家の心という表現が悪かったのですね。
 楽譜を演奏して心を打たれるそれが作曲家の心というつもりだったのです。
 私は楽譜はルールのようなものだと思っています。
 ルールに従っても個性は発揮できると思うのです。
 私は独創的なことをしたいとバッターが3塁に走り出すようなことをして欲しくないのです。
 楽譜に書いてない楽器を挿入したり音を挿入するのは編曲だと思います。
 編曲された音楽を好きな人もいるでしょうし嫌いな人もいると思います。

Posted by 島谷 at 2007年07月15日 10:46

>ところで楽譜には心など描かれておりませんがどうやって作曲家の心をつかめとおっしゃるのでしょうか?

映画監督が原作を読んで、ぜひこれを映画化したいと思いますよね。それと同様に演奏家というのは、原曲に対する共感があり、それを最高の形で演奏という形で表現するものではないでしょうか?

原作に対する共感がなく演奏するのは、二流か三流だと思います。楽譜には書いていないからこそ、その人の生涯を知り、こう感じていたのではないかと理解して、自分が表現する。
クラシックは、当時のヨーロッパの歌謡曲/ポピュラーみたいなものですが、これだけすたれないのはそれだけ原曲がすばらしいからだと思います。

ちなみに、小生もグールドは好きではありません。彼のK331はモーツァルト作曲ではなく、グールド作曲だからです。


Posted by Takkun at 2007年07月15日 10:47

 演奏家の方は自分の腕前を披露したいという欲望があると思います。それは決して悪いことではなくその欲望があるからこそ名演が生まれるのだと思います。
 しかし自分の技量をひけらかすためだけに演奏するのでは大道芸人の曲弾きと同じではありませんか。
 私は名演奏家といわれるハイフェッツも「どうだ俺はうまいだろう」と言わんばかりの演奏に感じられ大嫌いでした。曲弾きならチャップリンやジーンケリーもするぞと言いたかったです。
 協奏曲には独奏者の技量を披露するためのカデンツァがありますからそこで存分に曲弾きをしたらいいのにと思ったりしました。

Posted by 島谷 at 2007年07月15日 11:00

>歌い出すと背筋がゾーッとしてくるので慌てて消します。
>車で入って食事を注文しお茶を飲んでから演歌が流れると店の人に断って駐車場に行き車の中で食事を食べます。


島谷さんにとって演歌は毒ガスのような感じですね。わーい(嬉しい顔)

私はそこまで激しく演歌を嫌いはしませんが、
私も演歌を聴きたいと思ったことは一度もないし、演歌が始まるとラジオだろうがテレビだろうが消すかチャンネルを変えます。
演歌を聴くと気分が良くない程度です。
それと、演歌はほとんどメロディーがワンパターンに聞こえます。
新曲といってもほとんど聴いたことある旋律の組み合わせにしか聞こえません。
私は歌でもメロディーを聴いていて、歌詞はほとんど聴いていません。
ですから好きな曲でも歌詞をほとんど知りません。

でも、「千の風になって」は私は初めて歌詞を聴き、憶え、聴くたびに感動し涙が出そうになります。

Posted by BK at 2007年07月15日 14:32

私は歌でもメロディーを聴いていて、歌詞はほとんど聴いていません。
ですから好きな曲でも歌詞をほとんど知りません。
 私も声は楽器だと思っているので歌詞を聴いたことがありませんでした。
 歌詞はリズムを取るための音として聞いていますから意味なんかどうでもイージス艦。
 兎♪美味し♪鹿の山♪でもいいし重い♪コンダーラ♪試練の♪道を♪でもいいんです。
 だから日本語訳したオペラアリアは嫌いです。
 私が知っている歌詞はカラオケなど自分が歌うことがある曲だけです。

Posted by 島谷 at 2007年07月15日 14:52

加齢とともに高音域が聞き取りにくくなり、その結果として年配者は生理的に演歌を好む傾向があるのだと思われますが、島谷さんは耳がお若いのではないでしょうか。

ところで音楽作品の価値は

  作曲 + 編曲 + 演奏

で決まります。演奏者は即興編曲をする存在だと思います。音量やタッチを変えるのも広義の編曲です。

「演奏者が装飾音を加えること自体が悪」というのは一般化しすぎですね。加え方に好き嫌いがあるのは分かりますが。



Posted by hidew at 2007年07月15日 15:06

「演奏者が装飾音を加えること自体が悪」というのは一般化しすぎですね。
 確かにそうですね。筆が滑りました。
 軽薄な私メは弾みがつくと口が滑ったり筆が滑ったりするのです。
 演歌のコブシやアウアー系のバイオリニストのポルタメントが我慢できないので装飾音全般に悪態を付きたくなってしまうのです。
 控えめの装飾音なら個性のうちだと思います。
 じゃー控えめはどの程度なんだと言われると困りますが、、、、私の主観でーす。

Posted by 島谷 at 2007年07月15日 15:14

>歌詞はリズムを取るための音として聞いていますから意味なんかどうでもイージス艦。

私も歌詞の内容は聴いていないし、歌の音楽の良し悪しは作曲と歌声、歌い方でほとんど決まる。
と思っていましたから、例の森進一の作詞付け加え問題で作詞家が大いに威張っているのをみてフーーン?と奇妙に思いました。そんなに激怒することなの?
歌謡曲(演歌?)の世界では作詞が大切なのかなあ?と意外でした。

Posted by BK at 2007年07月16日 08:26

 作詞家の激怒は私が楽譜に大げさな装飾音を加えて演奏するのに怒るのと似たようなものかなと思いました。

Posted by 島谷 at 2007年07月16日 09:15

>歌詞はリズムを取るための音として聞いていますから意味なんかどうでもイージス艦。

>歌の音楽の良歌謡曲(演歌?)の世界では作詞が大切なのかなあ?と意外でした。

歌謡曲とかポピュラーに限らず、歌詞がすばらしいものも多々あります。小生は、歌詞を知ってから大好きになった曲もあります。



Posted by Takkun at 2007年07月16日 09:31

>歌詞を知ってから大好きになった曲

この曲の歌詞がすごいと言っておられましたね。

ttp://www.youtube.com/watch?v=nYvCeNsJsMo

平原綾香:ホルスト作曲「惑星 ジュピター」に歌詞をつけた歌。

サックス奏者でもあり、深い歌詞も作り、歌もうまい。たいした人なんですねえ。

Posted by BK at 2007年07月16日 10:34

 私は平原綾香の歌声は大好きです。癒やされますねぇ。
 しかし歌詞を意識して聞いたことは一度としてありません。

Posted by 島谷 at 2007年07月16日 11:00

私も普通は歌詞を意識して歌は聴きません。
音楽全体の雰囲気で自分の心が心地良いと感じるかどうかだけです。

でも、この歌詞を意識してして聞いてみたら深い内容だと思いました。

歌詞の内容を意識するのは、その内容が自分の体験とピッタシ共感する場合なのかもしれません。





Posted by BK at 2007年07月16日 11:34

 そうですか、今度意識して聴いてみます。

Posted by 島谷 at 2007年07月16日 12:03

>歌詞の内容を意識するのは、その内容が自分の体験とピッタシ共感する場合なのかもしれません。

全く、その通りだと思います。
歌詞の「希望を失うことよりも悲しいことは自分を信じてあげられないこと」という一節に感動して、誰がこんな真実を言葉にできるのだろうと思いました。娘の心の状況、そのものだったからです。娘が中学生より小さかったときに同じ歌詞を聴いても、頭で理解する程度だったでしょう。

平原綾香のジュピターという曲はホルストの惑星の一節だから、音大生の平原綾香がピッタリだったのだと思います。

作詞は「吉本由美」さんという方ですね。一般的にみれば「Every day I listen to my heart、ひとりじゃない」という言葉の方がスゴイようです。最近は、この言葉にも感動しています。

クラシックをはじめとする、芸術としての音楽には歌詞はありません。特に島谷さんは、音に敏感だから人一倍関心が高い一方で、言語表現においては良くすべっておられるから、歌詞には人一倍関心が沸かないのだと思います。


Posted by Takkun at 2007年07月16日 12:54

>クラシックをはじめとする、芸術としての音楽は歌詞はありません。


私の両親は歌謡曲には関心がなく、私は幼いころから中学生まで歌謡曲は聴いたことがありませんでした。
ラジオでなんとなく聴いていた程度で、歌謡曲にレコードがあることも知りませんでした。
ラジオの向こうで生で歌っているものと思い込んでいました。

家にあるレコードは歌詞のないレコードだけでした。

そんな環境も影響したのかもしれません。
普通に音楽を聴くとき歌詞は全く頭に入ってこないのです。

「千の風になって」の歌詞に感動するのは、年の近い敬愛する姉が突然亡くなったからです。
それがなかったら、歌詞をあまり意識はしなかったでしょう。

Posted by BK at 2007年07月16日 14:57

クラシックをはじめとする、芸術としての音楽には歌詞はありません。
 クラシックでも歌曲やオペラは歌詞があります。
 ベートーベンの第九もフィナーレは歌詞があります。
 メロディーがなくて詩として鑑賞してもきっと立派な詩なのでしょう。
 またオペラの歌詞は文楽の浄瑠璃と同様に筋を物語っているのだと思います。
 しかし、それでも私は歌詞の内容を聞こうとしたことがありません。
 オペラアリアを日本語で歌われると韻が合わないのでシラケてしまいます。

Posted by 島谷 at 2007年07月16日 15:17

>クラシックでも歌曲やオペラは歌詞があります。

そうですね。私は外国語の歌詞は歌詞として認識していませんでした。
やはり歌手の歌声は楽器として認識しているのかもしれません。


Posted by BK at 2007年07月16日 16:31

>>クラシックをはじめとする、芸術としての音楽には歌詞はありません。
> クラシックでも歌曲やオペラは歌詞があります。
 ベートーベンの第九もフィナーレは歌詞があります。
 メロディーがなくて詩として鑑賞してもきっと立派な詩なのでしょう。

小生はそんなことを議論するつもりはありませんが、また誤解を与えたようです。「『芸術としての』音楽」と書きました。
小生は、歌詞を「芸術」とは思っていないということを言いたかったのです。たとえ「詩としてもりっぱだったとしても、それは曲の芸術性を損なわない」というだけだと思います。

歌詞は言語表現であって、芸術性があるというのは、ひいきめにみても俳句・短歌のような「韻をふむ」ような場合だけだと思います。
歌詞で表現している内容が、多くの人の心を打つとしてもそれは、芸術とは無関係だと思います。

島谷さんをはじめ何人かの方が「大切なのは曲だけで、歌詞はどうでも良い」というようなことを書かれているように感じたので、「歌詞にもすばらしいものがある」と反論しただけです。(すばらしいから芸術性があるとは書いていません。)

特にフォークソングなどは、メロディーよりも歌詞が大切ですね。smapの「世界に一つだけの花」も、歌詞のおかげで大ヒットした例だと思います。

Posted by Takkun at 2007年07月16日 20:27

>島谷さんをはじめ何人かの方が「大切なのは曲だけで、歌詞はどうでも良い」というようなことを書かれているように感じたので、「歌詞にもすばらしいものがある」と反論しただけです。(すばらしいから芸術性があるとは書いていません。)



音楽・・音を楽しむ。理屈じゃなく単純にそれをしているんだと思います。

大切とか無用だとかじゃなく、音楽の楽しみ方として歌詞の内容を聴いていないだけだと思います。
音楽の良いところは、言葉に表現できない何かをストレートに聴く人の心に響かせることができる。ところだと思っています。

ですから意味不明の外国語の歌でも心で感じることができますよね。

言葉での表現は文学でも俳句でも詩でもいろいろできると思います。

Posted by BK at 2007年07月16日 22:15

 私は「世界に一つだけの花」が大好きですが未だに歌詞を知りませんし知ろうとも思っていません。私はよくよく変人なんですねぇ。
 ヒットする音楽の条件は外国の歌ならメロディー、自分の国の歌なら歌詞と喝破した人がいましたがそれが普通なんでしょうね。

Posted by 島谷 at 2007年07月17日 03:33

>吾輩は演歌が大嫌いだ。大嫌いというより生理的に受け付けられない。

全く同感です。

>演歌が嫌いなのは先ずヨナ抜き短音階だ。

スコットランド民謡等の外国の民謡の、ヨナ抜きの曲もお嫌いですか。
私の場合は、拒絶反応は起きません。

>作曲家の心まで演奏家の自己主張でひん曲げられては敵わない。
>だから自己主張の塊のようなピアニストのグレングールドは大嫌いだし名指揮者の誉れ高い故フルトヴェングラーも嫌いだ。

よくぞ言って下さいました。楽譜から作曲者の心を直観し、楽譜に沿った高い技術水準の演奏をしてこそ深い感動が生まれると思います。

>演歌でも「真っ赤な太陽」や「川の流れのように」は美空ひばりが歌わなければ素晴らしい曲だと思っている。

「悲しい酒」をアマチュア女性が歌うのを聴いた事があります。嫌味の欠片も無く、とてもすばらしかったです。


Posted by 菊池善 at 2012年05月19日 21:07

スコットランド民謡はヨナ抜きでしたか。
短音階でしょうか?
長音階ならヨナ抜きでも好きな曲がいっぱいあります。

Posted by 島谷 at 2012年05月20日 04:47

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