2007年01月01日

大晦日の第九

 日本では年末に第九の演奏が集中する。
 昨夜はNHK教育テレビで上岡敏之指揮N響の第九が放送された。
 第九を聴くのは久しぶりだなぁ。
 しかし我が家のテレビの音が悪いのかもしれないが耳障りに聞こえる。
 リズムの刻み方や各楽器の音のバランスがしっくりこない。
 聴いていてじれったくなって疲れる。
 第2楽章なかばで疲れ果てて聴くのをやめて寝床に向かった。
 バッハやモーツアルトはどんな演奏をされても曲そのものを楽しめる。
 ブルックナーやベートーベンは自分と相性が悪い演奏だとうんざりするのは何でだろ♪何でだろ♪

 誤解されるといけないので補足。
 吾輩は決して上岡敏之指揮N響の演奏が下手だといっているのではない。
 吾輩と相性が悪いというだけだ。
 吾輩は巨匠フルトヴェングラーの第九が嫌いだし、トスカニーニの第九も嫌いだ。
 前者はくどすぎるし後者はせからしすぎる。
 吾輩が好きなのはベームのような適当なテンポでゆったりとして演奏だなぁ。



この記事へのコメント
おはようございます。
今年もよろしくお願いします。
クラシックは素人ですが、友人がピアニスト兼ピアノ教師ということもあって、若い頃から好きでした。

↓その友人はこんなHPを出しています。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~piano-k/

>バッハやモーツアルトはどんな演奏をされても曲そのものを楽しめる。

この二人は純粋の古典派だからかもしれません。少々の脚色があっても音の羅列の仕方そのものが、誰に対しても心地よく響くようになっているのでしょうかね。モーツァルトは「優雅」というイメージで、ヒーリング・ミュージックですし。バッハは多くが宗教音楽ということもあるのか「端正」というイメージで、感動を受けない人が多いでしょうが、逆に誰に対してもいやな思いは与えないでしょう。

ちなみに小生の携帯電話の着信音は、ずっと昔からバッハの「主よ人の望みの喜びよ」です。メール着信もクラシック音楽です。

>ブルックナーやベートーベンは自分と相性が悪い演奏だとうんざりするのは何でだろ♪何でだろ♪

ブルックナーは良く知りませんが、ベートーベン以降の音楽家については、演奏で全然違いますね。もし似たりよったりならば、演奏家にとっても面白みがないと思います。

そういう意味でも演奏家にとっては、モーツァルトやバッハは通過点の一つに過ぎないし、聴衆が聞きたいから演奏するのだと思います。

Posted by Takkun at 2007年01月01日 10:28

 私はベートーベン以降の音楽が楽譜通りに演奏しても演奏家によって局の印象が大幅に変わってしまうのは楽譜が記録媒体として不完全だからだと思っています。
 それに比べて棋譜は誰が並べなおしても同じ局面を再現できるから完全な記録媒体ですね。 

Posted by 島谷 at 2007年01月01日 10:42

>私はベートーベン以降の音楽が楽譜通りに演奏しても演奏家によって局の印象が大幅に変わってしまうのは楽譜が記録媒体として不完全だからだと思っています。
 それに比べて棋譜は誰が並べなおしても同じ局面を再現できるから完全な記録媒体ですね。

そうですか。でも小生は全く違う考え方をしています。囲碁とか古典派クラシックというのは、「人の心」を表現していないからではないでしょうか。「人の心」はもともとあいまいなもので、完全な表現・伝達・記録手段はありませんから。

完全に記録できるのは、媒体としての条件もありますが、それ以前に対象としての条件の方が重要だと思います。


Posted by Takkun at 2007年01月01日 12:22

あけましておめでとうございます。昨年は何かと大変お世話になりました。今年もどうぞ宜しくお願い致します。

Posted by けすいせ ましよ at 2007年01月01日 12:57

けすいせ ましよさん、あけましておめでとうございます。
 こちらこそよろしくお願いいたします。

Posted by 島谷 at 2007年01月01日 13:35

囲碁とか古典派クラシックというのは、「人の心」を表現していないからではないでしょうか
 私は囲碁もクラシックも人の心を表現していると思います。
 モーツアルトの心の表現はベートーベンやブラームスに匹敵するものと感じています。
 バッハのh-molミサやマタイ受難曲なども人の心の表現ではないでしょうか。

 楽譜はテンポこそメトロノームで数値化していますがその他はアバウトですね。
 音程を例にとってもAの音は440Hzもあるし435Hzもあります。
 その他の音は平均率、純正調、ピタゴラスなど音律によって変わってきます。
 フォルテは何フォンかの規定もありません。
 クレシェンドの増加曲線の規定もありません。
 すべて演奏家の裁量にまかせています。
 演奏家によって曲の表情が変わるのは当然だと思います。

Posted by 島谷 at 2007年01月01日 14:22

 囲碁が心の表現とは言葉の使い方が間違っていましたね。
 囲碁は心の表現ではなく心が反映するんですね。

Posted by 島谷 at 2007年01月01日 14:26

>モーツアルトの心の表現はベートーベンやブラームスに匹敵するものと感じています。
 バッハのh-molミサやマタイ受難曲なども人の心の表現ではないでしょうか。

やはり、考え方が違うのだと思います。違うといっても、定義の問題、程度の問題だと思います。

>フォルテは何フォンかの規定もありません。
クレシェンドの増加曲線の規定もありません。

全く、そのとおりですよね。
それは作曲者自身が、規定したいとも思っていないし、規定する必要も全くないでしょう。

>・・・楽譜が記録媒体として不完全だからだと思っています。

ということで、この考えには賛成できないというのが、小生の意見です。(楽譜が不当な批判を受けているように感じたから反対意見を書きました。島谷さんの主観ですから、反対もクソもありませんが。)

Posted by Takkun at 2007年01月03日 22:36

 楽譜が不完全だという意味は作曲者の意図を完璧には表現できないというつもりで書きました。
 かつては楽譜をいじるのが演奏家の役割だと思った時代があり編曲ではないかといいたいくらい楽譜をいじくり回して演奏した巨匠がいましたね。
 トスカニーニはそれに異を唱え楽譜に忠実に演奏するザッハリッヒを主張しましたが、そのトスカニーニでさえ弦楽器に打楽器を重ねて演奏するなど楽譜に手を加えて演奏していました。
 バイオリンでもアウアー系のバイオリニストはポルタメントを多用して甘ったるい演奏をするので大嫌いでした。

Posted by 島谷 at 2007年01月04日 04:01

 人にはどんな表情をしても可愛い人がいますね。
 わーい(嬉しい顔)顔も可愛いしちっ(怒った顔)顔も可愛い。
 これに対して笑顔は絶世の美人だがふくれっ面は絞め殺したいほど憎い顔という人もいます。
 どんな演奏をされてもそれなりに楽しめる音楽と変な演奏をされるとウンザリする音楽。
 モーツアルトは前者でベートーベンは後者なのかもしれません。

Posted by 島谷 at 2007年01月04日 04:31

>楽譜が不完全だという意味は作曲者の意図を完璧には表現できないというつもりで書きました。

そういう意味ならば、わかりました。
ただ、「本人の主観を、ある手段を用いて『完璧に表現』して、第三者に伝達すること」は不可能かつナンセンスであると思っています。


Posted by Takkun at 2007年01月04日 08:49

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