これらの人は不祥事が続くことに「恥を知らぬ人が増えた」と嘆く。
私は恥の文化だからこそ不祥事が増えると思っている。
私はかつて別の場所で日本が恥の文化から脱皮して欲しいと発言したら猛烈なバッシングを受けた上に島谷は恥知らず人間だ、破廉恥人間だと人格否定されてしまったことがある。

まるで私は真っ裸で平気で道路を歩く人間みたいな目で見られてしまった。

私は真っ裸で道路を歩かない。
それは恥ずかしいからではない。悪いことだからだ。
恥の文化を誇らしげに語る人は恥=悪と定義しているのかもしれない。
それなら「恥ずかしいことをするな」ではなく「悪いことをするな」と素直に表現すればよかろう。
多くの人は恥=みっともないことと受け止めているのではなかろうか。
恥の文化を誇らしく思っている人は恥=みっともないの定義は間違っていると言うかもしれない。
しかし言葉は情報伝達の手段にすぎないのだから多くの人が恥=みっともないと受け止めるのならそれが恥の社会的定義になるのだ。
私は行動の規範は恥(みっともない)か否かではなく悪いことか否かでなければならないと思っている。
恥の文化はみっともなくなければ悪いことを平気で行い、みっともないと思うと正しいことをしない。
公衆浴場の湯船にタオルを浸すのは悪いことだ。しかし恥を基準に行動をする人間はタオルで下半身を隠したまま平気で湯船の中に入る。

善悪を基準に行動をするならタオルを外してタオルが湯船に浸からないようにして入るはずだ。
私は「悪いことだからやめなさい」ではなく「みっともないことだからやめなさい」と教育されてきた。
おそらく日本人なら私と同じような教育をされた人が多いだろう。
このことが行動の規範を善悪ではなく恥かしいか否かにする文化になってしまったのだと思う。
恥を基準にするから周りの人に迎合することに専念し皆が誰かをイジメればいっしょになってイジメに荷担する。
万引きが流行れば一緒になって万引きをする。
私は恥の文化から悪を許さぬ文化に脱皮して欲しいと心から願っている。
>善悪を基準に行動をするならタオルを外してタオルが湯船に浸からないようにして入るはずだ。
小生は銭湯が大好きで、茨木でも調布でも週に数回行きますが、タオルをつける人は見たことがありません。湯船にタオルをつける子供に対して叱っている親は見たことがあります。でも小生の祖父は、湯船の中でごしごしやりました。今の日本人は、そんなにマナーは悪くないですよ。
>私は「悪いことだからやめなさい」ではなく「みっともないことだからやめなさい」と教育されてきた。
おそらく日本人なら私と同じような教育をされた人が多いだろう。
高齢者はそう教育されてきたと思いますが、小生の世代ではそのような教育はされておりません。
>このことが行動の規範を善悪ではなく恥かしいか否かにする文化になってしまったのだと思う。
ですから、これは昔の日本のことであって、現在の日本のことではないと思います。「菊と刀」が書かれた時代はそうだったとは思いますが。
>日本は恥の文化だと誇らしげに語る人が少なくない。
島谷さんの同年代の人には、そういう人も少なくないのでしょう。
それから「はずかしいからやらない」の反対は「悪いからやらない」と考えられていますが、これは異質のものと思います。
日本・・・「『昔の日本は』指摘しない、主張もしない、そのかわりに相手を配慮する。」「『昔は』お互いの主張を述べて、交渉によって合意点を見出すことはしない。」
欧米・・・「『昔から』自分の都合・意見を主張する。相手は言葉で主張したこと以外は一切、配慮してくれない。つまり、すべて交渉である。」
一番の違いはここにあると思います。契約は守るものだとか、悪いからやらないというのは、非常にまじめな日本人の考え方で、欧米人はそんな考え方はしないと思います。日本社会よりも欧米社会の方が、契約とかルールではなく、お互いの個人的信頼関係を最重視しているように思えます。
卑近な例が夫婦です。最近、米国製の映画を二つ見て苦笑しました。一つは、ベトナム戦争時の話、もう一つは貿易センターピル事件で救出されたときの話。男は、妻に対して「愛してるよ。君はすばらしい。僕の人生は君のおかげで・・」と毎日いい続けないと、だめなのです。米国の技術者が一週間の予定で、小生の同僚のところに修理に来たのですが、一ヶ月間、直るまで返さなかったときには、大変でした。その技術者は「離婚される!離婚される!」と本当に心配していました。
>私はかつて別の場所で日本が恥の文化から脱皮して欲しいと発言したら猛烈なバッシングを受けた上に島谷は恥知らず人間だ、破廉恥人間だと人格否定されてしまったことがある。
島谷さんには全くそのつもりはなくても、受け取った方からみれば、自分のやり方・考え方を否定されているのですから・・・、人格否定とまではいかないまでも腹が立つのも自然だと思います。そして攻撃されれば、攻撃しかえすのも、ごく自然な行為だと思います。
ディール・カーネギーの「人を動かす」という本は世界のベストセラーで、何十年にもわたって何千万部も売れています。これは、日本社会にも、米国社会にも、欧州社会にもあてはまる内容だと思います。
私は主張し指摘をするので我が儘という烙印を押されバッシングを受け続けていました。
また相手の主張の方が正しいと自分の意見をさっさと撤回し主張する意見が変わるので信念をもたない奴の烙印も押されました。
私はなんでこんな国に生まれたんだろうと恨めしく感じながら育ちました。
欧米社会では、(主張することは良いことなので)我が儘の烙印は押されないと思いますが、「相手をたてること」が世界共通の一番良い方法であることを、ディール・カーネギーは説いています。
>また相手の主張の方が正しいと自分の意見をさっさと撤回し主張する意見が変わるので信念をもたない奴の烙印も押されました。
欧米人ならば、自己の主張を撤回せずに相手の意向に合わせたと言うでしょう。主張する意見がよく変わる人は、欧米社会でも低い評価を受けるように思います。
そんなことを書かれたら、このHPをすばらしいと感じている多くの人は、どうなるのでしょうか?
「他人を喜ばせることができる」島谷さんがダメ人間ならば、他の人は「無能な生きる価値のない人」になりますよ。
四路盤の説明も、すばらしいの一語に尽きると思います。(ただコウについての後半は、初心者にはむずかしいかなと思いましたが)
電車で化粧をする女!です。
良くないと主張する理由は「恥」以外の何物でもないでしょう。小生も嫌いです!
当時は母親がオッパイを見せるのは少しも恥ではなかったと思われます。
オッパイを見られるのが恥と感じるようになったのはアメリカに進駐されてからではないでしょうか。
なにが恥ずかしいか恥ずかしくないかは時代によって変わるのではないでしょうか。
劫の説明ってムズですねぇ。
噛み砕いて説明しようとすると長文になって読みづらくなりますし。
時間をかけて少しずつ直していこうと思っています。
そのようですね。日本人は公衆浴場が大好きで、裸の付き合いという言葉もありますが、外国人は最初はびっくりしますね。ただ最近は、スーパー銭湯や温泉でも、良く外人を見かけます。西洋人には、刺青をしている人もいますね。風呂では刺青お断りとなっていますが、まあヤクザとは違うからいいでしょう。
電車の中でいちゃいちゃしている男女をみると不愉快なのですが(別に今しなくてもいいだろう!我慢できないことに対して不愉快なのです。)、化粧はもっと不愉快です。化粧というのは仮面であって「舞台裏」のはずだからです。車中で化粧をするというのは、周りの乗客は人格を持たない風景としか思っていないのだと思います。
こういう考え方は、おじん臭いのでしょうね。
このお題を考えるときに分かり易いのは、「切れ負け制での時間攻め」です。
「時間攻めのグレーゾーン」については、極力、減らすべきという点で、島谷さんと私は一致していると思います。ただ、どうしてもグレーゾーンを解消することができない場合に、私は「恥」とか「マナー」を持ち込むべきだと考えます。
例えば、対局時計を用意できない大会で、「恥の文化」や「マナー」に頼ることなく円滑に運営するようなルールを作ることができるでしょうか?
化粧をするのが周りの人の劣情をそそるものなら禁止すべきですがそんな文化でもないからいいんじゃないかと思ってます。
時間の節約かなぁと感じるくらいです。
美人だったらどう変身するのか手品の種明かしを見るみたいで楽しいかもしれません。
大会運営者の裁定に異議をとなえないという一文を加えればすむことだと思います。
それは「金正日の裁定に異議を唱えない」という北朝鮮と同じ事で、ルール(明文)を根底から否定していると思います。最後は「人間の良識」に頼らざるを得ないと言うことをお分かりではありませんか。
私は、できるだけ明文化し、どうしても穴が漏れるところをやむを得ず裁定に委ねるというつもりでの発言です。
明文化を嫌う人明文化できるところも明文化しようとしません。
一体、どちらが安全でしょうか。
いま話題にしているのは価値観の違う人が混在するグループについてです。
価値観が違えば善意の人の集まりであってもそれぞれの良識が大きく異なります。
東京ならエスカレーターの左に立つのが良識ですが大阪なら右に立つのが良識でしょう。
価値観の違う人が混在する社会はできるかぎり明文化したルールを設定し、どうしてもルール化できなかったものを裁定者の判断に委ねるということです。
ルール化できなかた事案を集団の良識に委ねたら闘争になるでしょう。
「恥の文化から悪を許さぬ文化へ」「マナーからルールへ」を進めすぎたら、異文化に踏み込んだ善意の人が地雷を踏んで大変なことになってしまいます。
極端に言えば、大阪のエスカレータでは右に立つことを明文化し、ウッカリ左に立ってしまった人を「悪人呼ばわり」するということでしょう。
そもそもエスカレータのメーカーによれば「片側に偏って立ってはいけない」「歩いてはいけない」ということになっている(自治体によっては貼り紙がしてある)わけで、東京も大阪もルール的には「悪」ということになります。
>ルール化できなかた事案を集団の良識に委ねたら闘争になるでしょう。
闘争になるような事案をルール化するときは慎重であるべきでしょう。
ルールのパッチワークは霞ヶ関の官僚と弁護士を喜ばせるだけで、国民には良いことがありません。このお題は長くなりそうなのでまた改めて。
それに私は昨日の番組を見て日本に愛想が尽き果て真剣にルール云々を考えるのが馬鹿らしくなりました。
もうこうなったらいい、ああなったらいいという私的希望をもつのをやめることにしました。
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