しかし、切れ負け制反対論者は、時間攻めという囲碁技術以外の戦術で勝ちを得ることができるから欠陥ルールだと切れ負け制を糾弾する。
上の意見は私には言いがかりにしか過ぎないように感じる。
切れ負け制の時間攻め対策は別に難しいことではなく常識的な終局の時点で5分以上残り時間があるようにしておけばすむことだ。
それを検証してみよう。
終盤になる前から時間攻めということは考えにいれなくていいだろう。
終盤になる前から相手は時間攻めで打っくるから時間が切れて負けたというのは敗者の負け惜しみにしか聞こえない。
中盤の手どころでお互いの大石が食うか食われるかの戦いになった。
どうみても相手が有利そうなので楽観している相手はぽんぽん打ってくる。
長考を重ね相手のミスを誘い大石を葬って圧倒的優勢になった。
しかし、長考を連続したので残り時間2分になってしまった。
相手は投了しないで打ち続けるので時間切れ負けになってしまった。
あそこで投了しないとは卑怯な奴だ。
これはないだろう。
時間制限がなくても投了しないで粘る人はいっぱいる。
時間攻めというのは普通なら終局するのに相手の地の中に石を打ったり、自分の地の中に石を打ったり、とにかく石の置けるところに石を置いて終局を引き延ばして相手の時間切れを狙うことなはずだ。
ということは盤面中石だらけになるまで粘っても200手以上は粘れないだろう。
つまり自分は100手お相手をすればいいのだ。
死活や攻合いに関わる着手なら応手に時間を要するが囲碁技術的には無意味な石を置いてくるのだから応手に2秒もかからないだろう。
応手に熟慮を要する手は囲碁技術的には無意味な時間攻めの手ではなく囲碁技術的に有力な手のはずだ。
こちらがパッパと応手出来ないようにフェイントをかけるなどリズムを乱して着手する戦術をとったとしても3秒あれば応手して時計を叩けるだろう。
すると100手お付き合いしても300秒、つまり5分だ。
したがって常識的な終局時に残り5分あれば時間攻めにあっても時間切れにならないことになる。
持ち時間45分なら40分で1局打つつもりなら時間切れになるはずないだろう。
こんな簡単な対策も立てずに時間攻めをする人を責めるのは自分の非を相手に転嫁する行為だと思う。
泥棒に入られたのは戸締まりが不用心だからいけないので泥棒を攻めるのは間違っていると言うのと同じだと反論しないで欲しい。
泥棒は社会ルール違反の犯罪だ。
時間攻めはルールに則っている行為だ。
ルールに則っている行為に対して非難するのは逆ギレというものだ。
いまでこそ常識的なプレーになったが、内野ゴロで2塁封殺されるランナーが足を上げながらスライディングして併殺を防ぐプレーを危険で卑怯なプレーだと罵られたこともあった。
また将棋で待ち駒を卑怯という人がいた時代もあった。
運営ルールに則り時間攻めという囲碁技術以外の手段を使えるから切れ負け制は欠陥ルールだというのもおかしいと思う。
運営ルールに則った囲碁技術以外の手段は切れ負け制以外のルールでもいっぱいある。
盤外作戦はみんな囲碁技術以外の戦術ではないか。
時間攻め戦術だけ取り上げて切れ負け制が他の持ち時間システムより劣ると結論づけるのは一方的すぎると思う。
私的結論
切れ負け制は立派な対局運営ルールである。
★対局終了時間が予定時間をオーバーしないですむ。
★時間管理さえしっかりしていれば時間攻めを受けることはない。
妥当と思える対局運営ルール
★終局時間が所定時間をオーバーしてはならない場合:切れ負け制
★終局時間が所定時間をオーバーしてもいい場合:秒読み制
ただし、私は秒読みが大嫌いなので秒読みのある碁会には参加しない。
ネット碁の場合はスピーカーをオフにして秒読み音を聞こえないようにしている。
切れ負け制の場合、時間をめいっぱい使わないで、ある程度残して打たなくてはならないのですね。
本当にお付き合いをされるのですか? ^^
この島谷さんの一言がすべてだと思うのですが・・やっと議論(?)が終わりそうです。
・囲碁は、ルールのあるゲームである。
・大会運営においては、適した方法がとられる。
・その運営方法が少し有利な人もいれば、少し不利な人もいるだろう。
・またルールの範囲内ではいろんなことを考えて(卑怯ともいわれるようなことも)実行する人がいる。
・参加者はそれらをすべて納得した上で、その決められた範囲内で競技をして勝敗を競う。
・大会運営をする上ではどうするのが一番ましかは、運営サイドが一番良く知っている。(どんな方法をとっても、文句を言う人が必ずいるので、最善の方法というよりも、一番ましな方法と呼んでいます。)
これは囲碁にかぎらず、すべての競技において当然のことです。運営方法が不満な人は、その大会に参加しなければいいだけです。
>私は秒読みが大嫌いなので秒読みのある碁会には参加しない。
島谷さんのおっしゃる通りだと思います。パチ、パチ、パチ(拍手)!
甘すぎます。たぶん島谷さんは、真打ちの時間攻めを受けたことがないのでしょうね。
一般的な終局の図になってしまえば時間攻めされても5分で何とか打ち切れるかもしれません(それでも、打ち上げの時間は計算されてないようです)
大寄せの入り口くらいまで普通に打ったとしても、そこから全く常識外の打ち方をして相手との境界線を一切決めない、そして相手の地の中や自分の地の中に打っていく、打ち上げを余儀なくさせて、さらにその抜き後に打って行く。その繰り返しをすれば、残り時間が20分、30分あっても確実に切らすことができます。
相手より時間が少しでも多ければ良いと言いますが、この世界になってしまえば、時間管理なんていう次元ではないです。コンピュータゲームの連発叩きの技術の差です。碁ではないです。経験しないと理解できないでしょうが。
しかし、残り時間をフルに使って粘って来られたとき相手の残り時間が30分以上あったら投了しますね。
秒読み制の場合は絶対にお付き合いしません。 即投了します。
ネット碁でそんなチーターに遭遇したことがあります。
打ち上げている間は時計を止めるという対局ルールが増えているようです。
自分の石がアタリにならない限り相手の石をウチアゲてはいけませんね。
これはそのようなチーターと遭遇して悟りました。
パスも相手の打つ手数を増やすからだめです。
しゃにむに相手が打つ場所をなくすようにすればせいぜい200手くらいなはずです。
盤面全部埋めても361、劫争いがあったとしてもせいぜい400、切れ負けを狙うのは200手目前後からでしょう。
まさか序盤から切れ負けを狙うことはしないのではないでしょうか。
100歩譲って序盤からおっしゃるような打ち方をするチーターはレアケースでしょう。
チーターなら秒読み制でもカナダ制でも累計加秒制でもいます。
チーターがいるから秒読み制やカナダ制は欠陥ルールだと言わないのに切れ負け制だけ欠陥ルール呼ばわりされるのが納得できません。
> パタパタと打ってくれればお付き合いします。しかし、残り時間をフルに使って粘って来られたとき相手の残り時間が30分以上あったら投了しますね。
そうでしたか。小ヨセも終わって自分の地を埋める等の手にもし付き合わなければならないとすれば、hidewさんの仰った事が正しかったです。切れ負け制は欠陥ルールです。^^
秒読み制の方が始末に悪いです。
こちらが打った後、7・8・9の9の声のとき打つのです。
これを延々とやられると気が狂いそうになります。
100回お付き合いしたら50分時間を浪費させられてしまいますものね。
私は5〜6回目で投了しました。
25手10分のカナダ制でも9分なにも打たず9分たってから25手打ち、また9分打たないということを繰り返すチーターを見たことがあります。(私の対局ではありません。)
切れ負け制なら時間をかけると相手の時間が切れますからこちらの時間つぶしをさせるような嫌がらせはできません。
ハハハ、島谷さんは何かとすぐ投げられますが、もちろんそれは自由で立派^^な事です。しかし結果がそういう事ならば、せっかくのご主張が台無しになる感があります。^^
> 自分の地を埋めるなどの行為は切れ負け制に限らず秒読み制やカナダ制でもやられますよ。
多分ネット碁の事を言及されていますが、この切れ負け制の議論は一般の碁会・試合(審判付き)の時間制についての議論かと見受けます。ネット碁も審判の呼び出し或いは棋譜審査等のシステムが備えてあれば話は一緒ですが。
碁は審判の要るゲーム(競技)です。
棋譜大好きさんのご意見に賛成1票 (^_^)/
なお、tさんのコメントの時間攻めは、時間攻めというよりはチーターだと思います。
いわゆる時間攻めというのは後数手で終局だが自分は非勢、相手の時計を見ると残り時間わずか、数手打てば相手の時間が切れるというときに囲碁技術的に無意味な手を打って手数を稼ぐ行為だと思います。
序盤や中盤から囲碁技術的に無意味な手を打つ輩はチーターでしょう。
チーターは試合をぶちこわすことを目的としたならず者ですよねぇ。
審判がそんなものは碁ではないと一喝したとしてチーターが従うか心配です。
碁ではないというのはルールのどこに書いてあるのだ。
俺はルールに従って打っているだけだと開き直られたらどうしましょう。
退場を命じたとして参加費を返せとか、交通費を返せとか、これまでの労力はどうするのだとか因縁をつけてきそうで心配です。
杞憂だといいのですが。
# 私はイジメラレっ子でいろいろ因縁をつけられてイジメられていたのでトラウマになっているのです。
> 棋譜大好きさんのご意見に賛成1票 (^_^)/
ご賛同に感謝。(^Q^)
普通に碁を打っていれば、審判は要らないが、hidewさんが「碁は戦争、生か死か真剣勝負」と仰ったから、その一行が最も分かり易いかなと思った次第です。
> いわゆる時間攻めというのは後数手で終局だが自分は非勢、相手の時計を見ると残り時間わずか、数手打てば相手の時間が切れるというときに
囲碁技術的に無意味な手を打って手数を稼ぐ行為だと思います。
未だヨセが残っていれば、一応通常対局中ですので、そのような時間攻めは一つの「手」と思われます。時間がそれほど緊迫したら、いずれ"険しい事"になるのが最初から分かっている事で、いわゆる「自己責任」といったところでしょうか。
ただあんまりに目に余る場合は審判を呼ぶ事も考えられます。審判がどう判定するかは未知数ですが、場合によっては、審判が時計を止めて、「ここからは時間関係なしで終局させてください」と裁定するのは天下を唸らせる大岡裁きであり、当然の権限であります。^^
そう言えば、普段の我々の法律(六法全書)はこれでもかと細かく定められていますが、いざとなれば、やはり弁護士の弁舌や裁判官の考え次第で結果が違って来ますね。
> 審判がそんなものは碁ではないと一喝したとしてチーターが従うか心配です。...杞憂だといいのですが。
杞憂です。殆どの碁の試合には必ず(無条件に)審判の裁定に従うという規則があると思います。なんなら110番して、警察を呼べば一件落着です。
\(^o^)/
ポーシャもそう裁きそうですね。
ホッ(^_^)
ありがとうございました。
こんな性格が災いして、碁も勝負と言うより相手の考えを崩してやろうと言うことに重点があるようで勝負にこだわらない性格です、相手の目論見が外れることに快感を覚えます^0^
ということで時間攻め(責め?)をする人には時間攻めで応じてしまう^^;
先の話題の時にもう少し話されてよかったかなと思っていることがあります、今回の話題のような出来事を碁としてみるのか、或いはルールに則った手段としてみるのかという点です。「芸」「道」ととらえる人が多い日本では脱法的行為として非難されるんでしょうね。
私に腑に落ちない点があります、碁を「戦争」として見ている方に、脱法的行為として避難し碁ではないと断言し、だから切れ負けはよくないとしているところがあることです。戦争ならば生き残る手段として何をしても良いんだという結論なら理解できるんですけどね〜。(^^;;
日本人はマナーをルールとして規定するのが嫌いな人が多いようです。
地方によっては、何でもありの風潮のところがあります。
現実的には、20分以上の残り時間を切らしに行くような行為を毎回続けていては、さすがに顔を出せなくなると思いますが、彼らはその辺かなり巧みです。毎回やるわけではありません。かなりの実力があって、大寄せまでは普通に打っているのに、10分以内のところから、ひどい打ち方をしてきます。
地方の大会(特に予選)では正式な審判もいないのが普通です。時間無制限の時代には、審判的な人が必ずいて何とかまとめていたように思いますが、便利な時計が普及して逆に「時計が絶対、審判はかざり」という悪い風潮ができてしまった気がします。切れ負け制度で大会をやる場合は、大岡裁きのできる審判が絶対必要ですね。そういうのは寂しさもありますが。
棋譜大好きさん、こんにちは。
読ませて頂いて、なるほどと思うことが多いのですが、それならばどうすれば良いと思われるのでしょうか?
欠陥ルールだからやめるべきと考えられるのか、
欠陥ルールではあるけれども、それよりマシな方法はないと考えられるのか、ただ従うしかないと考えられるのか?
小生はあるソフトテニスにおいて、長年にわたって運営側をやっています。運営しているのは、もちろんみんなボランティア(無報酬)です。施設を借りている時刻までに終わらせる必要があるが、試合が15分のこともあれば40分に及ぶこともある。天候によって中止・中断の判断、決断も必要である。全試合に審判がついているけれども、プレーヤーが他の試合の審判をやるのでもめごとも多く、競技委員が呼び出される。駐車場の少ないコートでは参加プレーヤーの路上駐車もあって困る、団地の中のコートでは声がうるさいと住民の不満も多い・・・
囲碁大会の運営は、それに比べればましと思うのですが、(場所を借りているわけですから)予定時間内に全試合を消化しなければなりません。
>碁は審判の要るゲーム(競技)です。
だから、アマの地方大会などではどうすればいいというご意見なのでしょうか?
私見ですが、二回戦以降は審判ありにすることは簡単だと思います。一回前の敗者に審判をしてもらえばいいだけです。
>私に腑に落ちない点があります、碁を「戦争」として見ている方に、脱法的行為として避難し碁ではないと断言し、だから切れ負けはよくないとしているところがあることです。戦争ならば生き残る手段として何をしても良いんだという結論なら理解できるんですけどね〜。
囲碁は、ルールの範囲内で優劣を競う「ゲーム」です。「戦争」「真剣勝負」「命を賭けて」などは、『盤上で真剣に勝負をすることができない人』がいう言葉だと思います。
>先の話題の時にもう少し話されてよかったかなと思っていることがあります、今回の話題のような出来事を碁としてみるのか、或いはルールに則った手段としてみるのかという点です。「芸」「道」ととらえる人が多い日本では脱法的行為として非難されるんでしょうね。
ゲームに「芸」とか「道」があるのでしょうか?
(囲碁と将棋では言われますが、それは記者等が言ってるだけでプロ棋士はそう思っていないのでは・・・)
それよりも、ルールに記載されていないのが欠陥なのでしょう。故意に不当に時間を延ばすことは、多くのスポーツ等では禁止されており、ペナルティもルールで規定されています。まず、碁のルールに「〜のような行為は〜とする。」と決めればいいのです。そして、その判断は審判に与えられることになるでしょう。となると、囲碁でも審判が必要なんでしょうね。
残り10分の碁を切らすにしても相手に200手打たす、つまりそこから400手以上進行する碁を打たなければなりません。
盤面は361しかありませんから抜き跡に打つというテクしかないと思いますが、自分の石がアタリになっていなければアタリになっている相手の石を抜かなければ相手は打ちようがないはずです。
両劫を利用するとしても400手を超える碁を打つのは神業としか思えません。
私の想像を絶するハイテクですね。
しかし、そんな嫌がらせをやるチーターなら秒読み制の場合、負けている碁だと自分に勝つ人は絶対に次の対局に参加できないように29秒になるまで打たず9のときに打つことを延々と繰り返すんじゃないでしょうか。
400手を超える手数を打てるハイテクを駆使すれば秒読みになってから2時間くらいつぶすことができますね。
私はあると思っています。
芸とか道がなくなればゲームではなくパズルではないでしょうか。
また正解がわかっている場合でも正解が複数ある場合、どの正解を選ぶかもその人の芸とか道なんじゃないでしょうか。
「切れ負け制」は島谷さんが仰ったように欠陥ルールではないと思います。トラブルが起きた時に、審判か裁定者が居れば解決できますので、必要な場合は採用すれば良いのではないでしょうか。
> だから、アマの地方大会などではどうすればいいというご意見なのでしょうか?
正規な審判が居ればそれに越した事はありませんが、居なければ、大会関係者(幹事・職員等)が裁定者を務めれば良いかと思います。(会則の中に「トラブル等は運営関係者の裁定に従う」を入れるのは簡単ですよね^^)
審判や裁定者(複数可)は「一般常識」さえあれば、問題ないと思います。^^
なお日本の囲碁規約(他のルールも大体同じ)は、囲碁ルールは「対局者の良識と相互信頼の精神」に基づいて運用する、という趣旨の事が最初に明確に記されています。
tさんはチーターの被害を何回も受けたようですが大会関係者はなにをしているんでしょうねぇ。
主催者は挨拶だけ会場に顔を出し後は碁を知らないアルバイトに任せているんでしょうか。
(囲碁と将棋では言われますが、それは記者等が言ってるだけでプロ棋士はそう思っていないのでは・・・)
すみません!!!
島谷さんのおっしゃることが100%正しいです。
「芸」というのは「第三者を魅了することのできる高度な技」のことですから、「プロ」が存在するということ自体が「芸」の存在を証明していますね。
マジカル・バナナではありませんが、「道」→「精神論」→「?」で抵抗感があったものですから、無実である「芸」まで告発してしまいました。
訂正させて下さい。
囲碁というゲームにも立派に「芸」はあります。
でも、囲碁というゲームに「道」はないと思います。
道とマナーとはニュアンスが違いますが、そんな意味で使っている人が少なくないと思います。
また、中には囲碁を精神修養のアイテムまたは自分を高尚な人間に見せようとするアイテムとしている人にとっては囲碁は棋道だと主張していると思います。
人さまざま囲碁を道だと思ってる人には勝手に思わせておけばいいんじゃないですか。^^
道=マナーとは全く想像がつきませんでした。
道は、マナーのような軽い意味ではなく明文化されていないルールなのでしょうね。
しかし、いまでは軽い意味で使われることが多いような気がします。
☆碁は礼に始まり礼に終わる。
☆対局開始と終了のときは挨拶しましょう。
☆立て膝で碁を打ってはいけません。
☆碁盤の上に食器を置いてはいけません。
☆中座するときは着手してから。
☆碁を打ちながら騒いではいけません。
☆握りは上座の人が白石を握る。
などなど、お行儀とかマナーの意味で使われることが多いと思います。
皆さん碁を打たれると思いますが、そのためにはそれぞれ、「ある技芸」を身につけていらっしゃると思います、そして、そこに至る過程が「道」なんじゃないでしょうか?ゲームであっても技も芸も存在してると思います^^;
先の私の発言で意味不明な部分があったようですがみなさんの大人の解釈、対応に感謝です。
>ゲームであっても技も芸も存在してると思います^^;
芸も道も存在 です^^;
以下参照
---------------------------------------
日本囲碁規約
平成元年四月十日
財団法人 日本棋院
財団法人 関西棋院
(平成元年五月十五日実施)
財団法人日本棋院及び財団法人関西棋院は、昭和二十四年十月に制定した日本棋院囲碁規約を改定することとし、ここに日本囲碁規約を制定する。この規約は対局者の良識と相互信頼の精神に基づいて運用されなければならない。
第一条(対局)
囲碁は、「地」の多少を争うことを目的として、競技開始から第九条の「対局の停止」、までの間、両者の技芸を盤上で競うものであり、「終局」までの間着手することを「対局」という。
---------------------------------------------
余談ですが、
整地の時に石を動かされたこともあります、元々目算はそんなに得意ではありませんでしたがおかしいなと思い棋譜を並べ替えして確認しました。
私は時間攻めも許容範囲内と考えていますがこれはもうルールも何もありませんよね^^;
ハハハ、有り得ますね。その碁を知らないアルバイトの日記を読んでみたい。
「今日はよう分からんバイトをした。途中でトラブルあってさ、黒白を付けろと言われちょったが、目が白黒になったんよ....」^^
中国ルールでは「切れ負け制」はれっきとした時間制で、ルールブックの中に大きくと載ってあります。因みに中国の「切れ負け制」は、例えば小ヨセの段階で、「私はもう終わりです!」と宣言して、(今にも落ちそうな)時計を止める事ができます。ただし、その後の残りの小ヨセは全部相手が打つ事として、審判の確認の中で終局処理をします。「形勢は大差にいいが時間が無い」という対局者にとっては素晴らしい制度ですね。
囲碁には「技」も「芸」もあるとは思っていましたが、囲碁規約の中に「技芸を競う」とあるのには驚きです。
言葉の使い方、意味は、時代とともに変遷します。「道」という言葉は、小生が意識しているような重い意味ではなく、軽い使い方がされるのかもしれません。
・公式試合では、必ず審判をつける。
・審判は、対局を行わない選手がする。
ソフトテニスでは、大昔から行われている至極当たり前のことなのですが、囲碁連盟がその気になればできると思います。
審判が立ち会っていれば終局処理を任された相手が両劫を連打して取ってしまったり、相手のダメを詰めて打ち上げたりなどということはできないわけですね。
日本でも採用されればいいですね。
棋譜大好きさん、情報提供ありがとうございました。
> ソフトテニスでは、大昔から行われている至極当たり前のことなのですが、
ちょっと気になりましたので^^...
ソフトテニスは一試合ごとに審判が必要ですが、囲碁大会は百局だろうが二百局だろうが、審判は大体一人で事足ります。そしてめったな事に出番がないと思います。
○ 碁の審判があんまりにも目立たないので、hidewさんが時間制を論じた時はその存在を忘れたのかも知れませんね。
開会と閉会の挨拶をする人という印象しか持ちませんね。
警察と消防は暇な方が安全な社会と同じで審判はお飾りのような大会がベストですね。^^
私も関東大学リーグ戦で20年以上女子部の棋譜付けをしましたが、役員のお世話になったのは秒読み付き時計で時計をニュートラルにするのを忘れて石を取り上げている間に時間が切れてしまったときの1回だけでした。
隅のマガリ4目をセキだと言い張っている選手がいたこともありましたが、同じチームの男子選手が来て隅のマガリ4目が死にだということを別の碁盤で教えてやって役員の出番がありませんでした。
本当にそうですね。無くてはならない方々ですが、お世話にならない事が幸せというものですね。あ、この前道端を歩いていたら一回お巡りさんに呼び止められてしもうた。人相が悪かったのかな。:-)
> 私も関東大学リーグ戦で20年以上女子部の棋譜付けをしましたが、役員のお世話になったのは秒読み付き時計で時計をニュートラルにするのを忘れて石を取り上げている間に時間が切れてしまったときの1回だけでした。
その時の役員の判定いかに? ^^
余談ですが、「日本囲碁規約」を読んで研究する人は、よく曖昧、難しい、不合理...と不評が多いですが^^、その原因は多分囲碁審判でもないのに、無理に読もうとするからと推測します。^^
本当は中国ルールやINGルール等の他ルールに比べれば簡潔で分かり易いものと思います。例えば我々は法律の本を読まなくても普段の生活に支障は無いが、もし「六法全書」を普通の小説の感じで読むと、やはり悪評が多いでしょうね。
ほかの役員を呼んで相談してと粘るので私が「いーじゃないか、どうせこの試合勝ったとしても我がチームは1−2の負けなんだし、勝ち数も順位に影響しないんだから」となだめたら「なーんだ、私で勝負が決まると思ったから必死になって粘ったんだけど、もっと楽しく打てばよかった」と言って投了し1件落着でした。
相手の選手も「チームの勝負が決まっているのだったら私が打ちたい手を打って楽しく打ったのに損した。」と大笑いになりました。
確かに法律を知らなくても日常生活に不便しませんね。
だから、無理に法律を勉強しようと言う気がおきないし、それに悪徳商法がつけこむんですね。
役員の判定は俗手と言えますが、時として俗手を打って、楽しい結果につながるのも悪くないね。
> それに悪徳商法がつけこむんですね。
悪徳商法(チーター)に遭われましたら、即消費者センターや弁護士(囲碁審判)に問い合わせるべし。^^
このスレッドがとても勉強になり、どうも有難うございました。
はい。その通りだと思います。
もうすでに結論も出ているのに、蒸し返すようで申し訳ないのですが、チーターのような人がいて皆さんが不愉快な思いをされているのだったら、今までの常識にとらわれない対策を考えればいいのではとないかという意味であり、その一例でした。
小生は囲碁の大会には出場したことがないのですが、何となく中国ルールはおかしいような気がします。まだ一目以上の手が残っているのに打たないというのは、それは時間切れの負けにすべきではないかと思います。
そもそも持ち時間というのは、終局までの時間のことではないでしょうか。現在のルールでは、終局は対局者双方の合意によることになっていますから、普通に考えたら終局のはずなのに、チーターによって終局以降の時間切れで勝敗が逆転するということになっています。ですから、終局を適切にすればチーターを排除できるのではないでしょうか。
つまり、現在のルールがチーターを容認しているのであって、ルール上の不備だと思います。プラスアルファとして、対局者一方および審判が終局と認めた場合というのを追加すればどうでしょうか?
運営においては、例えば、「一方が3回以上0目またはそれ以下の手を打った場合、他方は審判員に対して終局であることをアピールすることができる。そして審判員がこれを終局として認めた場合には、終局とする。」
これならば、秒読みがある場合でも同じことです。
いかがでしょうか?
なお、中国ではそのようになっていると棋譜大好きさんから教えて頂きました。
日本もこの運営ルールが採用されるといいですね。
なお、中国ではそのようになっていると棋譜大好きさんから教えて頂きました。
なぜ、このようなルールを改正しないかというと
儒教の精神があるからではないでしょうか?
・日本では、プロがある場合には、プロを基準にルールが作られて、アマは(精神論で)準じるのが常である。
・それに対して西洋や中国では、アマしか生じないケースも、ちゃんとルール化されます。
・おそらく韓国も、日本と同様ではないでしょうか?
西洋も、今はまだ競技人口が非常に少ないので問題にならないでしょうが、増えればルール化されるはずです。
ただし、これは私がもつ儒教のイメージ(禁欲主義や性善論)であって本当の儒教を知ってのうえでの考えではありません。
ちなみに、儒教は宗教とは全く無関係で、世間における生き方を説いている「実学」です。これに対して宗教は「魂の救済」が目的で、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教などです。
小生が言ってる儒教とは「年長者を敬え」「親を大切にしろ」などといったことです。
>国際化が進むにつれ日本社会の治安がどんどん悪化していくのは儒教文化のためだと思っています。
文明が発達すれば犯罪が増えたり、例外なく治安が悪くなるものだと思います。国際化が進むことで、日本社会が誇れる社会通念(世間様に合わせる顔がないとか、お天道様が見ているから悪いことはできないとか、儒教の精神でもある敬語とか)が失われつつあることが、原因ではないでしょうか。
>私がもつ儒教のイメージ(禁欲主義や性善論)
儒教は、全くそんなことは言っていないと思います。小生も詳しいわけではないのですが、禁欲主義というのはキリスト教のカトリックくらいかな?
性悪説は西洋的発想、性善説はそれに対するアンチテーゼ、東洋的発想では善も悪もないという感じかな?
道祖神からも類推できるように江戸時代の日本文化は性に関しておおらかだったのが儒教のおかげでみだらなものというイメージになったような気がしてなりません。
学校の性教育も「性は素晴らしいもの、だから大切にしなければいけないもの」と教えるべきだと思うのですが、隠微なものとして扱っているような感じがしてなりません。
これぞまさしく、囲碁のルールですね。
チーターが住めないルールにすればいいのに。
>異文化交流する社会になって治安が悪化したのだと思っているのです。
治安が悪くなっているとすれば、異文化交流が悪いのではなく、西洋物質文明との発達・交流によって、失っているものがあるからと思っています。
それにしても、治安が悪くなったというのは本当ですか?小生が子供のころと違って、泥棒というのは本当に減ったと思います。暴力団というのも住みにくくなっています。
>道祖神からも類推できるように江戸時代の日本文化は性に関しておおらかだったのが
本当にそうですね。同感です。
>儒教のおかげでみだらなものというイメージになったような気がしてなりません。
性をみだらなものとするようになったのはいつからなのかなあ?文明開化?太平洋戦争?戦後?調べる価値がありそうです。私見ですが、「三従の教え」が女学校で教えられるようになってからではないでしょうか。これは、女性蔑視からきていると思います。日本に限らず、カトリックもですが・・・
よっぽど環境のいいところにお住まいなんですねぇ。
私の付近は日増しに物騒になって来ました。
無差別殺人や集団スリなどの報道も絶えませんねぇ。
私の孫(小6)のクラスにも万引き常習者がいます。
まきこまれないかと心配です。
よっぽど環境のいいところにお住まいなんですねぇ。
私の付近は日増しに物騒になって来ました。
島谷さんの以下の記事を読んで、何に対して感じているかがすごく違うことがわかりました。
>無差別殺人や
無差別殺人というのは、何を指して言われているのでしょうか?サリン事件、和歌山カレー毒事件、池田小学校事件、女性連続暴行・殺人事件、マンションからの少年突き落とし事件・・・いろいろあります。確かに、昔はこんな事件はなかったですから、物騒になったと思います。
>集団スリなどの報道も絶えませんねぇ。
スリ程度ならば、目くじらを立てるほどではないではありませんか!(本当は、良くないか) 命をとられるわけでもなし。
>私の孫(小6)のクラスにも万引き常習者がいます。
まきこまれないかと心配です
万引きはりっぱな「犯罪」ですが、殆どの場合、貧乏で万引きしているのではなく心の病気でしょう。昔は多かった泥棒・空き巣狙いとは動機が違います。お孫さんがまきこまれるとしたら、その親の家庭の問題だと思います。
四十年前には、交通事故での死者が三万人を超えて社会問題化していましたが、現在では一万人を切っています。これに対して、自殺者は当時一万人もいませんでしたが、今では年間三万人を越えているのをご存知でしょうか?
新聞でも、犯罪にかかわった人が警察の事情徴取・良心の呵責に耐えかねて自殺した人の記事は出ますが、それはほんの一握りです。(つい先日も、京王線が人身事故のため、夜九時半くらいから、終電までストップしました。でも新聞報道は全くされません。)
自殺に関しては、国際的にみて、日本と韓国が圧倒的に多いのですが、儒教の精神があるのが良くないのかもしれません。
チーターの話から、どんどん脱線していってスミマセン。
スラレようとしているのに防いだために気がついて殺された被害者もいましたね。
私が子供の頃には当たり前だったキセル乗車と同様に犯罪意識がないんでしょうね。
万引きは犯罪という教育がなされていないように思います。
自殺しようと思う心の余裕があるのかもしれません。
私の子供の頃は生き抜くのが精一杯で自殺する心の余裕がありませんでした。
私が子供の頃いまのように余裕があったらイジメに耐えかねて私は自殺していたと思います。
>集団スリはスリと言うよりは強盗のようですよ。
スラレようとしているのに防いだために気がついて殺された被害者もいましたね。
はい、確かにそう思います。
> 私が子供の頃には当たり前だったキセル乗車と同様に犯罪意識がないんでしょうね。
万引きは犯罪という教育がなされていないように思います。
小生も、そう思います。ですから最近は、学校教育でも、実社会のポスターをみても、そういう方向になりつつあると感じています。
> 自殺しようと思う心の余裕があるのかもしれません。
私の子供の頃は生き抜くのが精一杯で自殺する心の余裕がありませんでした。
私が子供の頃いまのように余裕があったらイジメに耐えかねて私は自殺していたと思います。
おっしゃるとおりで、衣食住が足りない場合には自殺はありえないと思います。島谷さんご自身が被害者の苦しみを乗り越えてこられたからこそ、自殺者に対して批判的になるのはごもっともかもしれません。
小生の場合には友人の弟が自殺しただけでなく、自殺の可能性まであった娘が立ち直るまでの長年にわたる家庭地獄(特に、女房の苦労は筆舌に尽くし難いです。)を体験しています。
それで「日本社会の治安がどんどん悪化していくのは・・」というくだりに、過剰反応してしまいました(儒教の話はどうでもいいのです)。お互いに冷静な理屈ではなく、原体験に基づく感情的なものが異なるのですから、この話はオヒラキにしたいと思います。
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